3000文字チャレンジ|雑草
今回の3000文字チャレンジ、テーマは「雑草」にしてみた。
だが、このテーマは難しい。すでに本チャレンジの数は2桁に及ぶはずだが、普段何気なしに使っている言葉、なかでも多数の事象を包括する、「総称ワード」は手ごわいのだ。
というのも、こうしたワードは定義がぼんやりしすぎて、記憶に全然フックしない。
要はネタが思いつかないのである。
これは面接で「あなたの長所は何ですか?」と訊かれるたびに、私が考え込んでしまうのとよく似ている。
あれは、マジで何も思いつかない。
長所が苦手
私は面接の定番質問、「長所は何ですか?」が苦手だ。正確には「長所」というぼんやりワードが苦手だ。一生友達になれそうにない。
あれは定義が曖昧すぎる。全か無か、一かゼロか、そんな美しいデータをこよなく愛するサイエンチストの私とは、この上なく相性が悪い。
そもそも、長所とは何なのだ?相対的に、他人より優れていれば長所なのか?
すると若いだけでも長所となり得るだろう。
新卒リクルーターは総じて若い。圧倒的な長所だ。通常、ほとんどの面接官は残りの寿命で対抗できない。
だが、「アナタよりも長生きできます」。そんな長所をのたまう新卒クンは内定しない。
若さは長所ではない。そんな相反するデータばかりが積み上がってゆく。パラドックスだ。
このような矛盾はサイエンチストが最も忌むべき事象である。私が例の質問を嫌うのも無理はない。
人生は皮肉だ
そんな私が前職にて、何の因果か面接官なる役を拝命したことがある。私は不本意ながらも、数多のリクルーターに問いかけた。「あなたの長所は何ですか」と。
ある者は応えた。「語学が堪能です」と。
ああ、それは長所だろう。間違いない。私は彼女の長所に100点の評価をつけた。
また、ある者は応えた。「コミュニケーション能力に自信があります」と。
ふむ、コミュニケーションとは何だろう。交渉力か、リーダーシップか。あるいは共感力もあり得るだろう。
それに彼は自信があるとも言った。自信とはなんだ。それを測る単位はあるのか?彼の自信は何メガバイトだ?
くそう、曖昧だ。それは本当に長所なのかが分からない。分かるのは彼はコミュ的に「なんかイイ感じ」ということだけだ。
彼は落ちた。おそらく私が30点にしたからだ。だが、あれはやむを得ない処置だったと思う。
このように、私は長所の中身を吟味するでなく、長所に「カテゴライズ」できるか否か、そのマッチング度のみを評価し続けた。
そう、奇抜な長所、曖昧な長所は、長所たりえなかった。テニス部の部長だったから何だというのだ。そんなものは0点だ。
あの面接室において長所とは、すんなりと長所にカテゴライズできること、その一点こそが重要だった。
今回のテーマは雑草です
長所の考察を続けよう。
先述のように、長所としてのマッチング度を数値化できる内はまだマシだ。困るのは本人が長所と信じてやまないケースである。
あるものは云った。「舌が、鼻に届きます」と。
私は長考した。どういうことか。私は長所は何かと尋ねたはずだ。それは間違いない。だが、彼女は舌の長さで返答してきた。
もしかすると彼女の文化圏では、舌の長さが人の優劣を決定するのだろうか。
いや、まさか、私は世間知らずではあるが、義務教育を履修済みだ。そんな文化はないはずだ。
すると、舌は何かの暗喩 (あんゆ)だろうか。例えば営業トーク。これが鼻に届く。
ここはクライアントの鼻と解釈すると良さそうだ。すなわち相手の鼻だ。
そうか、彼女は「相手の御眼鏡にかなう営業トークが得意」、そう主張しているのだ。
素晴らしい。現にこうして、彼女の真意は私にも届いているではないか。
彼女もまた高評価だった。惜しむらくは、他の面接官が異なる評価をしたことだ。
リマインダー:テーマは雑草です
私は、本人が長所と信じて森羅万象をアピールすること。これについては何の異論もない。遠慮も恥も不要と思っている。
ただ、それが評価に繋がらないのは赦してほしい。それは面接官の物差しが未熟であること、もしくは長所の定義が曖昧なことに起因しているだけなのだ。
こうした理不尽に翻弄されるのは、人知を超えた能力を有するリクルーターに多かったと記憶している。
あの日、私の面接官として役目が終わるあの日、外はどしゃ降りだった。
彼は5番目のリクルーターだったと思う。いつものように私が長所を尋ねると、彼は応えた。
「空をみれば、明日の天気が分かります」と。
ずぶ濡れの彼は自信満々だった。ワイシャツが肌に張り付き、インナーの輪郭がくっきりと見て取れる。
彼が今日の天気を予測できるのであれば、こんな仕打ちは受けないはずだ。
私はゆっくりと頷き、「ああ、きっとこの若者は、痛い子に違いない」。そう確信した。
「ならばなぜ、貴方はそんなにずぶ濡れなのか?」
そんな野暮な質問をする面接官はいなかった。大人たちは分かっていたのだ。「翌日の天気が分かること」、これはきっと想像以上に素晴らしい能力だ。
イベント業にテーマパーク、そうした職種においては、彼の才は大きなアドバンテージとなるに違いない。
だがあの日、彼にとって最も重要だったのは、「明日」ではなく、「今日」の天気が分かることだった。
彼は落ちた。満場一致で。
テーマに戻ろう
そろそろ冒頭のテーマに戻ろう。長所は厄介という話だ。
上述のとおり、長所は厄介だ。聴き手によっては「短所」と解釈されるリスクがある。
例えば私の長所は、何処に出しても恥ずかしくない、このHENTAIっぷりといえるだろう。
しかもただのHENTAIではない。空気の読めるHENTAIだ。もちろん、読んだ空気を行動に反映させないときもある。てか、メッチャある。
だがまったく読めないよりは、幾分ましだと信じたい。
ちなみにTwitter界において、私の愛するフォロワーさんの一人、ノミ@nomisoku_blog氏は、そんな著者を「真面目とHENTAIのマりアージュ」と呼んだ。これは、私の本質を実に良く捉えていると思う。
アーティストの目は鋭い。氏は類まれなるイラストレーターであるが、きっとHENTAIにも造詣が深いに違いない。
HENTAIは長所か
HENTAIは美しい。それは技術であり、生き方であり、またその性質を有する人材の代名詞だ。
そして我らHENTAIは一挙手一投足、特に日々の発言において、不快と快楽、拒絶とユーモア、その究極の境界を探求し続けている。
要はBanされないギリギリを狙っているのだ。
HENTAIは危うい。間違っても最期の一線を越えてはいけない。この至上のルールを侵したら、それはただの下ネタだ。
ルールは絶対だ。品性を欠いた時点でNG、そのうえ気遣いも無ければセクハラとなってしまう。喜んでいるのは本人だけの迷惑行為だ。
このようにHENTAIはとても危うい。なので私は常日頃、Twitter界においては品性と気遣い、これら両輪をバランスし、Banされませんようにと祈りをこめて問題発言を放っている。
そんな私のリプの数々を、優しいフォロワーさん達はこう呼んでいる。
「下ネタ」と。
彼らはよく理解している。下ネタに品性もくそもないことを。そう、下ネタはどこまで行っても下ネタなのだ。
幸いにして、私は分別のある大人である。自身の繰り出す下ネタが、高尚なナニかに昇華しないことを理解している。
この理解度を証明するのは難しい。ただ、これまで自身の面接において、「品性ある下ネタ」に関する持論を展開したことはない。
おわりに:テーマは雑草でお届けしました
意外に思われるかもしれないが、私は面接で「HENTAIです」と主張したことは一度もない。なぜなら現在の日本において、HENTAIは短所とされているからだ。とても残念だ。
だが本当にそれは短所だろうか。このまま結論するのはいささか乱暴だろう。
それにもし、私がいま一度人事権を手にしたならば、前回とは異なる結果を出せる気がするのだ。それを軽くシュミレートしてみたい。
私は面接官。HENTAIだ。部屋には爽やかなリクルーターの青年がいる。私は不本意ながらも、彼に「長所」は何かと尋ねてみる。
すると彼は真っ直ぐな目で私を見返し、少しはにかみながらも、揺るがぬトーンで応えるのだ。
「私はHENTAIです」、と。
数舜、部屋の空気は凍るだろう。私の両サイドに座っている、いわゆるフツーの面接官は思考停止だ。彼らは一生、何が起きたかを理解することはないだろう。
だが私には分かる。そしてあまりの僥倖に、思わず天を仰ぐことだろう。我らHENTAIにとって理想の時代が訪れた僥倖に。
そう、彼は成し遂げたのだ。かつて私が挫折した、面接室でのカミングアウト。彼は確かに言った。「HENTAIです」と。偉業は成った。時代はパラダイムシフトのときを迎えた。
「私はHENTAIです」。この短いセンテンスに、ここまで魂を揺さぶられるのは何故だろう。美しい。その一言しか出てこない。
いつの間にか、私の頬を一筋の涙が伝っている。流れた跡がほのかに暖かい。私はそれを拭うことも忘れ、若きパイオニアに震える声でこう告げる。
「お帰りください」と。
そう、ビジネスの場にHENTAIは要らない。下ネタはもっと要らない。そこに品があってもなくても、総じて要らない。近頃はコンプライアンスが厳しいのだ。