3000文字チャレンジ|猫
すでにお気づきの方も多いだろう。最近、私のブログにアイコンが実装されたのだ。
いままでの無機質極まりない灰色の人型シルエットから、とてもカラフルで愛嬌があり、なおかつ知的な光を目に宿しながらも、何やら素敵なことを企んでいそう、そんな私の内面を余すことなく体現した「猫さん」へと変わったのだ。実にカワイイ。
「猫さん」アイコンとの馴れ初め
とは書いてはみたものの、変化に「お気づきの方」がいるはずもない。
Googleアナリティクスによれば、アイコン設定前のこの1週間、我がサイトを訪れたユーザー数は、1か2の二択だったのである。当然、この「1」は私自身だ。管理業務の一環である。
ちなみに「2」も私だ。お出かけ中の私が自ら訪問したものである。会社のPCで接続すれば、少しはアクセス数が伸びるだろうか?そんな好奇心と「願い」の産物である。
さて、アイコンについてだが、かねてより私はデフォルト設定の、あの「うっすい灰色」に嫌悪を抱いていた。
人にはそれぞれ相性の悪い色があるというが、どうやら私の場合は、この「うっすい灰色」だったようだ。ユーザー数「1」として、サイトを訪問するたびに、何やら心がざわざわしていたものだ。
それにしてもこの人型のフォルムは、一体誰が稟議したものだろうか。どこからどう見ても「太ったテルテル坊主のバストアップ」である。
私はこんなに太ってはいないし、なで肩でもない。そんなシルエットに1ミリも愛着の持てない私は、あろうことか、自分の分身である「彼」をサイドバーの一番下へと追いやっていた。
そんなサイトの開設から一ヶ月が経ったある日。さてもさても、いまだに誰もこのブログを訪れないのは、もしや、こやつの仕業なのでは?
いつしか、私はそんな疑いの目で「彼」を見るようになっていた。というのも存在感のうっすい存在とはいえ、仮にも彼はこのサイトの「管理人」である。
当然、管理者権限もある。私のあずかり知らぬところで「公開設定」をオフにするなど容易であろう。まさか、サイドバーの隅っこへと押しのけたことを恨んでの犯行だろうか?
そんな被害妄想がピークに達したとき、数年前にお世話になった、とあるクラウドサービスのことを思い出した。現代の職人ギルド、「ココナラ」である。
ココナラとは
この「ココナラ」なるサイトは、各種の業界で名乗りを上げた職人が集う場だ。彼らは己の技量をサービスとして「出品」し、世の中のありとあらゆる「困った」を解決してくれる。
まさに、職人ギルドのシステムそのものだ。サービス内容は広汎で、経理や資料作成、プログラミングなどの実務から、「愚痴聞き」「元気になる方法」まで、購入可能だ。
余談だが、私は「モテる方法」を購入したいと思っている。特に「悪用厳禁」「禁断」などがクレームされたサービスが期待できそうだ。ネックは1万円と高価なことだが、きっと価値あるものに違いない。
さて、禁忌に手を出し、モテすぎてしまう前にやることがある。灰色に代わる、素敵なアイコンを作ってもらうのだ。当然ながら、職人選びは重要だ。
優れた技術を持ち、かつ作品づくりに妥協のない職人だ。「ウチは、一見はお断りだ」。そんな貫禄に満ちた、頑固一徹を求めている。これが筋肉隆々のドワーフみたいなジイさんだったら、なお良しだ。
そんなことを思いながら、ココナラの「アイコン作成」カテゴリを検索してみる。するとそこには1万人をゆうに超える、職人たちが待ち受けていた。「ほほぅ」と、私は嘆息する。どの職人も素晴らしいまでのマッチョではないか。
ためらうことなく、テストステロンの香り溢れる、マッチョの海へと飛び込んだ私は、さっそく職人の選抜を開始した。この何処かに、キレッキレの「フロントダブルバイセップス」をポーズしているマッチョがいるはずなのだ。
私は体内で一番小さい「あぶみ骨筋」も見逃すまいと、辺りに漂う「モストマスキュラーポーズ」の間をゆるりと進む。そうして間近に雄々しくそびえる、タフガイ作画のひとつ一つを吟味していった。
この繊細な人物像を描いたマッチョは、きっと見事な大胸筋をお持ちに違いない。キャンパス全体が静謐 (せいひつ)な雰囲気ながらも、目には不屈の闘志が宿っている。並々ならぬバルクでなければ、こうは描けまい。
また、その隣に祀られているアニメ画だってマーベラスだ。今にも動き出しそうな躍動感。きっと高名なハムストリングの所有者だろう。なんといかつい仕上がりぶりだ。
もちろん作品は人物画だけに留まらない。こちらの筋骨隆々なウサギさんの「ゆるふわ」デフォルメだって秀逸だ。見ているだけでキュンキュン萌え萌えが止まらない。
作者はこの色づかいを習得するため、一体どれだけ僧帽筋を鍛えたのだろうか。
それにしてもだ。これは、なかなかに甲乙が決め難い。なにせ、この「アイコン作成」のカテゴリには、1万を超すマッチョたちがひしめいているのである。まさに筋肉のフェス。ナイスバルクだ。
メガネ萌えの生誕
そんな折、突如としてひときわ輝くポートフォリオに目が止まった。そして、そのまま視線が離せなくなった私は、まるで吸い込まれるかのように、恋に落ちた。「メガネ」に。
メガネである。一目見たとき、私は悟った。「このメガネは、本物だ」と。見れば見るほどに完璧だ。
そして作者がキャンパス全体にほどこした、鑑賞者をいざなう視線誘導も完璧だった。一度メガネを見たが最期、作画のどこに視線をやっても最後はメガネに戻ってくるのだ。なんと緻密な構図だろうか。
それにしても、なんと素敵なメガネであろうか。存在感のある黒縁ながらも、軽量感が伺える。さぞかし、かけ心地がよいことだろう。ああ、なんとかして、このメガネを掛けることはできないだろうか。
あの質感、あのフォルム、きっと私は就寝時だって外しはしまい。一瞬にしてメガネの虜となったこの瞬間。私は「メガネ萌え」に開眼していた。
これが記念すべき、アイコン職人、MOCOTTOY氏との出会いである。
ちなみに、先ほどは圧倒的なメガネの存在感で気付かなかったが、キャンパスには猫耳娘が描かれていた。
モフモフ耳の彼女は実に魅力的だ。艶やかな口元に、挑戦的な目線を流す。さらには吹き出しを介して「メガネは、顔の一部です!」と、かの名言を発信している。
それにしても、「メガネは、顔の一部です」。これはなんと確信をついたフレーズだろうか。この名言を、真に名言たらしめているのが、氏の画期的な試み。すなわち、「メガネwith猫耳娘」の構図である。
そう、「メガネwith」である。決して「猫耳娘with」ではない。この違いがお分かりだろうか?
つまり、「猫耳娘が、メガネを掛けている」のではなく、むしろ、「メガネが、猫耳娘に乗っている」という解釈だ。主体が違う。細かいようだが、非常に重要だ。頑張ってついてきて欲しい。
このメガネを主体に置くことによって、彼女の言う「メガネは、顔の一部です」の解釈は、「メガネの一部が、顔です」へと昇華をみる。
つまり我らメガラーの顔は、もはやメガネの一部なのである。知ってのとおり霊肉二元論によれば、「身体は魂の入れ物」にすぎない。
このグノーシス主義の至宝を適用するなら、我々の顔は「メガネスタンド」にすぎないのだ。
何を言っているのか分からない? 大丈夫だ。私も分からない。
MOCOTTOY氏という職人
とにかく、MOCOTTOY氏の作品に私が恋する理由。それは、メガネを前面に押し出したテーマ性にある。おそらく氏は現存する多くのメガネについて、その魅力を引き出す方法を熟知しているのだろう。
こうした知識と類まれなる画力をシナジーし、作品を芸術の域へと高めているに違いない。いや、これはすでに「作品」という、ありきたりなワードで表現できる範疇を超えていよう。
そうだ、「愛」はどうだろうか。作品ではなく「愛」だ。うむ、しごく自然だ。
察するに、「愛」に辿り着くまでには、相当の修練があったとお見受けする。氏の修行時代、道の先々に眼鏡屋があれば、それを無視することなど、どうしてできようか。
きっと、一目散に入店し、ディスプレイの片っ端から新作フレームを掛けまくったに違いない。
そして、「やはり、フレームの軽さはオンデーズ社のAIRシリーズ一択だな」、もしくは、「何度試しても、ウルテム樹脂の弾力性には、惚れ惚れする」。そういった独り言と供に、研鑽を重ねていたのだろう。
一方、店のバックヤードでは、スタッフ達がささやいていたに違いない。「あの子、また来てるわ。ちょっと注意したほうがいいかしら」と。
それを見た老練の店長は、訳知り顔で「彼女は、いいんだ」。そう言って、フレームに没頭する後ろ姿に暖かい視線を送り、ゆっくり、そして深くうなずくのである。
謝辞
さて、思いがけず長文となってしまったが、まずは、ここまでついて来ていただいた方々へ、感謝を申し上げたい。
記事のテーマが「猫」から「アイコン」へ、そして私の「メガネ萌え」へと偏向し、あげく暴走の様相を呈したこと。これについては謝罪したい。まことに不徳の致すところである。
つまるところ、本記事の本懐は、MOCOTTOY氏のメガネ、いや、画力が「ヤベぇ」。その一言に尽きる。そんなこんなで、氏に作成頂いたのが、現在私が使用中の「猫さん」アイコンだ。
自身の分身たる「猫さん」との対面時、そのインパクトは今でも忘れない。今まで見落としていたが、「猫さん」と対面して気付いたのだ。「私は、カワイイ」と。
確かに幼少の頃、母をはじめ、親戚一同から「カワイイ、カワイイ」などと言われて育った記憶があるが、あれはなかなかに的を得ていたらしい。
さて、そんな私が何よりもお気に入りなのが、この愛らしい「猫さん」のメガネである。なに?このアイコンは、メガネを掛けていないではないか?
そう、的確な指摘だ。だが少々間違っている。
しかしてこの認識違いこそが、まさに氏が天才たる所以なのである。つまり氏はもはやメガネを描くことなく、メガネを描写しているのだ。
言い換えれば「猫さん」そのものがメガネなのである。目が離せないほどの「猫さん」のチャーミングさがその証明だ。これぞ境地に辿り着いた、至高のメガネ職人のアンサーといえよう。
さて、本記事を読み、氏の「愛」への渇望を覚えたアナタに問いたい。下記、かのリンクへと旅立つ準備はよろしいだろうか?
「メガネ萌え」の同志がまた一人、ここに生誕することを私は心から嬉しく思う。
MOCOTTOY氏へのリンク→ From the dearest bon. (bonより愛を込めて)